LOGIN古い礼拝堂の中には、割れたステンドグラスから夕暮れの光が差し込んでいた。
赤。
青。 金。床へ落ちた色硝子の破片が、まるで砕けた星のように輝いている。
その中央で、リリアはレオンの手を握ったまま、白い神殿で見たものを一つずつ話していた。初代月華セレネ。
かつて空と大地に存在した二つの月。 人々の痛みや悲しみを引き受け、夜へ還していた月の神。 王家に利用され、傷つけられ、深淵へ変わった存在。 そして―― 初代銀狼公が、その核を己の身体へ封じ込めたこと。話している間、レオンは一度も口を挟まなかった。
ただ静かに聞いていた。 けれど、繋いだ手の力は少しずつ強くなっていった。「セレネ様は言いました」
リリアは最後の言葉を口にする。
「深淵を拒むだけでは、器はいずれ壊れると」
レオンの銀色の瞳がわずかに揺れた。
「俺が受け入れ
「次の敵は、私たちの記憶を消しに来る」 王宮西棟の病室でセドリックがそう告げたのは、まだ夜が明ける前のことだった。 第一王子から緊急の知らせを受け、公爵邸にいたリリアとレオンが急ぎ王宮へ戻った頃には、東の空がようやく白み始めていたが、王都に広がっている異変は夜明けとは正反対の不気味さを帯びていた。 馬車が王宮へ向かう大通りへ差しかかった時、リリアは窓の外から聞こえてきた声に思わず顔を上げた。「……すまないが、名前をもう一度教えてくれないか」 道端の店先で、年配の男性が妻らしい女性を見つめていた。 彼はひどく困惑した表情を浮かべている。「顔は分かるんだ。大切な人だってことも分かっている。それなのに、名前だけがどうしても出てこない」 男性の唇が震えた。 女性は泣きそうな顔になりながらも、懸命に笑ってみせた。「マリアよ」「……そうだ、マリア」 名前を口にした瞬間、男性の目から涙が落ちた。「忘れたら、また言ってくれるか」「何度でも言うわ」「ああ」「何度忘れても、何度でも」 馬車はその二人の前をゆっくり通り過ぎていった。 リリアは胸元へ手を当てた。「もう始まっていますね」「ああ」 隣に座るレオンの声も硬い。 今朝だけで、同じような報告がすでに何件も上がっていた。 人の名前だけを忘れた者。 昨日の出来事だけが抜け落ちた者。 逆に、自分ではない誰かの記憶を夢として見た者。 まだ王都全域を覆うほど大規模ではない。 それでも、忘却の海が確実にこちら側の世界へ影響を及ぼし始めている。 レオンの足元で影が揺れ、小さな夜色の姿をしたノクスが顔を出した。『まだ浅い』「何がですか」『忘却との接続だ』 ノクスは黄金色の瞳で窓の外を見
決戦から七日が過ぎた朝。 王宮西棟の一室では、一人の罪人が名前を読み続けていた。「エドガー・ハインツ」 掠れた声が、静かな部屋へ落ちる。「北方第三鉱山、運搬員」 紙をめくる。「妻と、二人の子供……」 セドリックはそこで言葉を止めた。 名簿には、亡くなった者の名前だけではなく。 年齢。 職業。 家族。 行方不明になった日。 遺体が発見された場所。 判明している限りの情報が記されている。 最初は、名前だけを覚えるつもりだった。 けれど、名前の横に記された短い一文を読むたび。 その者がただの数字ではなかったことを思い知らされる。 エドガー・ハインツ。 三十九歳。 妻と子供を養うため。 冬の間も鉱山へ入り続けていた男。 黒鴉会の者たちに拉致され。 術式の実験体として王都へ送られた。 帰りを待っていた家族へ。 遺体すら返らなかった。 セドリックは震える指で、紙の端を掴む。「……次を」 向かいに立つ記録官が戸惑う。「殿下」「次を読め」「しかし、すでに二刻以上」「読め!」 声を荒らげた瞬間。 胸に激痛が走った。「ぐっ……!」 セドリックは身体を折り曲げる。 包帯の下。 胸元に残る黒い亀裂が明滅する。 記録官が慌てて医師を呼ぼうとする。「呼ぶな」「ですが」「この程度で止めれば」 息を切らしながら。 セドリックは名簿を見る。「私はまた、逃げる」「殿下はまだ治療中です」「だから何だ」「倒れてしまえば、裁判へも」「倒れれば起こせ」
決戦から、三日が過ぎた。 王都はまだ、夜明けを取り戻したばかりのような顔をしていた。 王宮北部の一帯は封鎖され、崩落した地下区画の調査が続いている。 石畳には亀裂が残り。 一部の建物には黒霧が通り抜けた痕跡が、煤のように刻まれていた。 けれど、空は青い。 市場には少しずつ人が戻り。 パン屋からは焼きたての香りが漂い。 道端では、子供たちが藍色の狼を描いて遊んでいる。「夜の狼が、悪い霧を食べたんだって!」「違うよ。銀狼公爵が神様になったんだよ」「月華の聖女様と結婚して、王様になるんだって!」 公爵邸へ向かう馬車の中。 窓の外から聞こえた言葉に、リリアは咳き込んだ。「け、結婚して王様に?」 向かいに座るレオンは、眉間へ深い皺を寄せている。「訂正させる」「どの部分をですか?」「すべてだ」「結婚も?」「……そこは」 レオンは言葉を止めた。 リリアは首を傾げる。「そこは?」「今は噂の話をしている」「はい」「王になるつもりはない」「結婚は否定しないんですね」 馬車の中に沈黙が落ちた。 レオンは窓の外へ顔を向ける。 耳が少し赤い。 リリアはそれ以上追及せず。 小さく笑った。 すると、足元の影から夜色の頭が現れた。『人の噂とは奇妙だ』 ノクスである。 今は大型犬ほどの姿で、レオンの影を出入りしている。 決戦直後より力が戻ってきたらしく。 以前は輪郭が透けていた身体も、今では星空の毛並みがはっきり見える。「どのあたりがですか?」『我が霧を食べたという部分だ』「食べてはいませんね」『あれは痛みと記憶の残滓だ』 ノクスは不満そうに鼻を鳴らす。『食物と同列に扱うな』「子
夜が明けても、公爵邸に静けさは戻らなかった。 庭園には救出された人々が横たわり、芝生の上へ白い布と毛布が敷き詰められていた。 兵士。 研究者。 北方の村人。 黒鴉会に属していた者。 王宮の使用人。 敵も味方も関係なく、意識のある者から順に治療を受けている。 屋敷の使用人たちは湯を沸かし続け、騎士たちは負傷者を運び、ミアは泣きそうな顔をしながら薬品と包帯の間を走り回っていた。「こちらの方、脈が弱いです!」「温めてください!」「黒霧を吸い込んでいます!」「水を飲ませないで。先に呼吸を整えます!」 リリアは芝生へ膝をつき、一人の少女の胸へ手を当てていた。 北方で行方不明になっていた村人の一人だ。 まだ十歳にも満たない。 冷え切った手。 青ざめた唇。 呼吸は浅い。 だが、胸の奥には確かに命が残っている。「聞こえますか?」 少女の耳元で呼びかける。 反応はない。 リリアは指先へ月華を灯した。 淡い光が少女の胸へ沈んでいく。 以前のように、身体の中へ無理に入り込み、黒霧を自分へ引き受けることはしない。 黒い力がどこから入り。 どこへ帰ればいいのか。 ただ、その道を照らす。 少女の胸元から、細い黒霧が浮かび上がった。 それは空へ昇らず。 リリアの隣へ漂っていく。 そこに藍色の小さな光が現れた。 ノクスの力。 黒霧は夜色の光へ包まれ、静かに薄れていく。 消えたのではない。 痛みの形を失い。 夜の一部へ戻っていったのだ。 少女の身体が小さく震える。「……お母、さん」 掠れた声。 リリアは息を吐いた。「大丈夫です」 少女の手を握る。「もう帰れますよ」
爆発は、音より先に光として訪れた。 赤。 黒。 そして、深淵の底を思わせる藍色。 三つの光が月蝕の間を呑み込み、天井も、祭壇も、黒い水面も、一瞬で見えなくなる。「リリア!」 レオンの声。 次の瞬間、強い腕がリリアの身体を抱き寄せた。 背中へ回された腕。 胸元へ押しつけられる頬。 レオンの鼓動が、激しく響いている。 リリアは反射的に彼の軍服を掴んだ。「レオン様!」「俺から離れるな!」「はい!」 爆風が二人を襲う。 熱ではない。 凍えるほど冷たい衝撃だった。 黒霧と深淵の残滓が、無数の刃となって広間を駆け抜けていく。 レオンの背後に、巨大な銀狼の影が現れた。 その輪郭を縁取るのは、夜空のような藍色の光。 ノクスの力。 銀狼は二人を覆うように身を伏せ、黒い刃を受け止める。 だが衝撃はそれだけでは終わらなかった。 床に刻まれた赤い魔法陣が次々と砕け、割れ目から黒い炎が噴き上がる。 円形の祭壇が大きく傾いた。 水中へ沈められていた人々の身体が、崩壊する術式へ引き込まれていく。「人が沈んでいます!」 リリアが叫ぶ。「先に防壁を!」 レオンは銀狼を維持したまま、剣を床へ突き立てた。 藍色の光が波紋のように広がる。 傾いた祭壇の縁で踏みとどまっていた第一王子も、剣を掲げた。「全員、中央へ集まれ! 負傷者を優先しろ!」 直属騎士たちが黒い水へ飛び込み、意識を失った者を抱え上げる。 ユリウスは両手を床へ当て、崩落を防ぐ術式を展開していた。「長くは持ちません!」「地下全体の支柱が崩れています!」「出口は!」 第一王子が叫ぶ。「来た道は塞がれました!」「転移術式も黒霧に乱されています!」 マルタが黒い水の中
黒い鎖が、闇を裂いた。 空気も大地も存在しない深淵の内側で、それは雷鳴のような音を立てながらレオンへ襲いかかる。「レオン様!」 リリアが叫ぶ。 レオンは一歩前へ出た。 銀色の剣を両手で握り、振り下ろされる鎖を正面から受け止める。 激しい衝撃。 銀と黒の火花が弾け、深淵そのものが大きく揺れた。「ぐっ……!」 レオンの腕へ黒い筋が走る。 鎖に触れた箇所から、深淵の力が身体へ流れ込んでいる。「無理をしないでください!」「これくらいで、無理とは言わない」 そう答える声は強い。 だが、リリアには分かった。 レオンの中で何かが崩れ始めている。 彼の胸に宿る銀狼の星印。 そこへ黒い亀裂が入り、少しずつ広がっていた。 セドリックは黒い鎖を引き戻し、冷たい笑みを浮かべる。「まだ抵抗するのか。君は深淵を受け入れようとしている。その身体は、すでに人間の限界を越えつつある。あと少しだ、あと少しで、君は自分が誰だったのかさえ分からなくなる」 レオンの銀色の瞳が、僅かに揺れた。 その一瞬を。 セドリックは見逃さなかった。 黒い鎖が再び放たれる。 今度はレオンではない。 リリアへ向かって。「っ!」 リリアが月華の光を展開する。 淡い銀色の膜が身体を包んだ。 鎖が光へ衝突する。 耳をつんざくような音。 防いだ。 しかし、鎖の先端から滲み出た黒い霧が、月華の膜を通り抜けた。 そして、リリアの額へ触れる。 ◇ 次の瞬間。 リリアは薬房に立っていた。 懐かしい香り。 乾燥させた薬草。 煮詰めた蜜。 少し焦げた鍋。 窓の外には、故郷の小さな町並みが見える。「リリア」 振り返る。 父がいた。